品品喫茶譚

暇さえあれば喫茶店に行く。テーブルの上に古本屋で買った本を広げて、珈琲を飲む。ぼーっと窓の外の風景を眺める。 初めて訪れた街では喫茶店を探し、住み慣れた街に新しい喫茶店を見つけては歓喜する。 喫茶店を中心とした日々の生活記録。

品品喫茶譚第30回「尾道 山斗須~ふたたびのそごう 後篇」

尾道パブルイスでのライブでは藤井君をはじめ彼の妹のむつこさんや色々な方々が手伝って下さり、気持ちよく歌うことができた。疫病が蔓延する前、私はこんな感じで色々な街に歌いに行き、その街の人に助けてもらい、良くしてもらいながら活動してきたのだったと改めて思い出す。いかにいつも独りで立っているような顔をしてローンウルフ(この言い方は西村賢太に影響されている!)を気取ったところで、いつもその街に私を呼んでくれる人あっての自分の活動である。本当にありがたい夜だった。

 

次の日は夕刻まで街を歩いた。行く先は決めていた。半年前の尾道滞在の際に教えてもらった「そごう」という喫茶店を再訪するつもりだった。所謂、観光地然としての尾道のアーケードとは真逆の、その街に暮らす人々の生活圏(スーパーとかワークマンがある道路沿い)といった地域に店はある。前回訪れたときのことは拙著『品品喫茶譚』「尾道そごう」を参照されたし。今回は他にお客もなく、全くの貸切、一番奥の席に座って、前回とは違うカレーを注文した。相変わらず緑色のソファが私好みであり、また他に誰もいないこと、角っこの席のビタハマり感など相まって、しばらくここで作業をさせてもらうことにした。いつも携帯しているのはポメラである。これにちまちま文章を打ち込んでは消しを繰り返していく。いま少し長い文章を書いているのである。歯を食いしばり、かと思えば頬を著しく弛緩させニマニマとし、周りに誰もいないのを良いことに作業に没頭していく。

「もう閉店の時間なんです。すいません」店の方が申し訳なさそうに声をかける。

時計を見れば十五時。今日は十六時に人と合流する予定なのだった。

 

遠くの方からアーケードを歩いてくる荻原魚雷さんの姿が目に入った。丸めがねにいつもの生成のシャツ、いつもの坊ちゃん刈り。シャツは何枚持っているのだろう、生地の厚みが変わるにしても、一年中同じような服を着ているからすぐ分かる。まだ数十メートルは先にいる魚雷さんに思わず会釈し、駆け寄った。

もうすぐホテルのチェックインの時刻になる。ついさっきまでひとりで歩き回っていた尾道の街をいまは魚雷さんと歩いていることがなんだか不思議だった。魚雷さんは声が小さいので、何度も聞き返す。反対に自分の声は大きくなる。魚雷さんに会うとすぐに嬉しくなってそうなる。

とりあえず夜の座談会まで、その座談会の相手でもある藤井君の店・古本屋弐拾dBに、魚雷さんと雑誌「些末事研究」の主催・福田さん(今回の座談会の主催者)を案内することになった。

「この路地の先にポエムっていう喫茶店がありまして。あっ、そこはキツネ雨という雰囲気のある喫茶店です。この間はそこの古道具屋は開いていたんですけど、、」

「ふうん。へー」二人はなぜか私の前を歩いていく。

「あ、そこの路地曲がります」

少し行き過ぎた二人が戻ってきて立ち止まる。目の前に弐拾dBの年季の入った建物が見える。しかし魚雷さんはその路地の手前のビルのドアを開けようとする。

「今日お休みかもしれない。空いてないよ」

「魚雷さん、あっちです」

 

弐拾dBでしばし買い物をしたものの、まだ店の閉店に合わせて設定した集合時間までは大分と間があったので、藤井君と一旦別れ、海沿いにあるバーのような店に入る。これから藤井君が予約してくれた飲み屋で飲むことになるが、とりあえずビールで乾杯する。奥に座った魚雷さんの斜め上くらいの壁に誰かのサインが直に書かれている。サインの横には小さいポラロイド写真が貼られていて、それを見る限り、私にはそこに映っているのがブルースブラザーズに見えた。嬉しそうに話すお二人の話に相槌を打ちつつ、それにしても尾道にブルースブラザーズが来たのだろうか、ということがとにかく気になって仕方がない。どうしてもお二人の話をうわの空で聞いてしまう。ポラをちらちら見ているうちに、そこに写る人物たちの輪郭が段々はっきりしてきた。ヒントはサインの下に書かれた威勢のいい英語だと思った。ウォンビーロング。グラサン。二人組。 ウォンビーロング。バブルガムブラザーズ! 分かった途端に判読できなかったはずのサインも、ブラザートム、ブラザーコンだと読めるから不思議だ。まあそれは厳密には読めたのではなく、分かったというだけのことではある。そうなってくると、「won't be long」と魚雷さんのコントラストが面白すぎる。くいっとビールを飲んでニヤニヤ笑う魚雷さんとサインの写真を一枚撮らせてもらった。

そうこうしているうちに「won't be long(もうすぐだ)」との言葉通り、あっという間に待ち合わせの時間になった。待ち合わせ場所はかつて私と藤井君が初めて出会った日のライブの打ち上げで行った居酒屋だった。そのときはちょうど数十年ぶりのカープ優勝が決まった夜で、店全体がはっちゃけまくっていて、とにかくすごかった。関係ない私までなんだかその空気に飲まれ、喜んだりしたものだった。

通された席は端っこの隅っこだった。別にちびちび、という訳でもないが、四人寄り集まってほそぼそと瓶ビールを注ぎ合い、尾道っぽいおつまみとかを食べながら、あとで何を話したのか全く覚えていないような話をした。しかし私がトイレに立って戻ると、彼らがいない。急いで店を出ると、騒がしくなってきたので河岸を変えるとのこと。ちゃんと私の荷物は外に運んでくれているのに、本人のことは待たないのか。

コンビニで缶ビールやおつまみなんかを購って、港に突き出した堤防の突端へと歩を進める。車座になって腰を下ろすと、生ぬるい風に対岸の向島のあかりがきれいだった。もはや結構酔っていて、ここでも何を話したのかは覚えていない。途中、藤井と魚雷さんが何やら話のキャッチボールをしている後ろの海を青い発光体がひとつスイスイ進んでいくのが見えた。酔っているからそうなのか、そもそもそうなのか、おそらくどっちでもあるところの悪癖が出て、何やら話が途切れたところを見計らったのか、少しだけ腰を折ってしまったのかは忘れたけれども、私は藤井に海に青く光る発光体だよ、と言った。藤井もひとしく酔っているようだったけれど「ああ、ホタルイカですよ」と自分でも薄々気づいていたことを改めて言ってくれた。ありがとう。

暗い海にチロチロと怠惰な放物線を描いて光が舞っていく。それを緩慢な波が瞬く間にさらっていく。ポンポン船はもう終わり、近くのベンチで語らっていたカップルもいなくなっていた。ビールやチューハイのロング缶片手にやっぱり何を話したのか覚えていない。私もずいぶん話をしたような気がするけれど、堤防に着いたとき、福田さんから、全然喋っていないけれど、どうですか? と聞かれ、また自分がよく分からなくなった。

それでもこの日の夜は良い夜だった。

 宿は魚雷さんと福田さんと同室だった。余ったお菓子なんかを軽くつまみながら、和室で過ごす時間は楽しかったが、トイレに立って戻ってくると、お二人はすでに布団に入っていた。なぜいつも私がトイレに立ったときに事を動かすのだろうか。

眠っているのか、いないのか、妙なまどろみの時間が過ぎていく。誰かがトイレに立ったような気がしたが、部屋は静まり返っている。ふと足に白い誰かの足が触れた気がした。私は三人川の字の一番左端の布団で寝ている。私の足は部屋の一番角にあって、そこには着物掛けが一個置いてあるだけである。この白い足は夜更けも夜更け、こんな深更に、部屋の角に立って何をしているのだろう。恐らく二人のどちらかには違いないけれども、その行動に理屈が合わず、ちょっと怖かった。

「この階には私たちしかいないみたいねぇ」

「そうだなあ。それにしてもニンニクを食べると息が臭くなるねえ」

朝六時、隣室のそんなよくわからない内容の話声で目を覚ます。外は土砂降り。アーケードの上に大粒の雨が跳ねて、いつのまにかやんだ。

 

 

 

品品喫茶譚第29回「尾道 山斗須~ふたたびのそごう 前篇」

半年ぶりに訪れた尾道はすっかり夏。

今年の一月に一週間ほど滞在したこの街にはもはや来るというよりも帰ってきたという言い方のほうがしっくりくる。しかし、しっくりきているのは自分だけかもしれない。風は強く、荷物は重い。海沿いのベンチで少し水分補給をし、よく歩いたことのある商店街とは反対、一月の滞在中もほぼほぼ足を運ぶことのなかったほうへと進む。

今回の宿は海に面したホテルである。位置でいえば有吉弘行尾道で結婚式を挙げた際にInstagramにあげたるところの遊歩道の辺り。ちなみに私は中学生の頃、有吉が好きだった。猿岩石日記は有吉の日記のほうだけを何度も読み返した。非凡だと思った。しかし周りはバナナマンとか、U-turnとかボキャブラ天国とかだった。もちろん私もそれらが好きだったけれど、とりわけ猿岩石は一等好きだった。つまりユーラシア大陸横断ヒッチハイクの熱に浮かされていた。ミーハーだった。歌手としての猿岩石もだいぶあとのほうまで追っかけていた。白い雲のように。ツキ。コンビニ。その三つの楽曲のさらに三つ先くらいの楽曲までは買っていた。アルバムはなぜかいまも部屋に置いてある。猿岩石のことはいまはちょっと恥ずかしい。とはいえ、有吉はすごい。だからやっぱりちゃんと売れたじゃん、あの頃、私の周りにいた人々に言ってやりたい。と、そんなことを考えながら歩いたわけではなかったけれども、駅から歩くこと数分ののち、ホテルに着いた。ロビーは狭くて暗くて少し怖かった。

今回の尾道滞在は二日間。一日目はライブで、二日目は別件で宿が用意されていた。旅までの間、一日目の宿を探すのと並行して、大島てるを見ていた。悪趣味ではあるが、旅先でおっかない思いはしたくない。大島てるというのは事故物件の情報を地図上でまとめているサイトである。事故物件には炎のマークがついている。もちろん事故物件である理由はさまざまであるが、大概心理的瑕疵などと簡潔に書かれていることが多い。調べていると、私の宿泊する予定のホテルのすぐ近くにある別のホテルに件の炎マークがついていた。ホテルなどは不特定多数の人間が出入りする以上色々あるだろう。しかし件の炎マークの内容は他のものとはちょっと違った。

 

「近くで飲んで深更に帰ってくると、駐車場に男か女か分からない老人が座っているのが見えた。フロントでカギをもらい部屋に入ると、さっきの老人がベッドの上で正座していた。とはいえ、酔っていたのでそのままベッドで眠ってしまったのだが、朝起きると胸に二本の足の跡がついていた!」(著者 要約)

 

見紛うことなき怪談である。しかし老人がベッドにいたのにどうやって眠ったのだろう。支離滅裂ではあるが、しかし変な凄味もある。一体なんなのだろう。

 

通された部屋は七階だった。このホテルには何のいわくもないはずである。しかし部屋の古さのわりにテレビがでかすぎる。テレビが異様に新しい代わりにエアコンが古すぎて、通風口のふたが異様に錆びている。錆びているということは金属製なんだろうか、普通にプラスチックに見えるのに変だなあ、とか思っていたら色々怖くなってきた。部屋に入るとまっすぐ目の前にベッドが置かれているのも、そこに体を横たえると、どうしても正面にドアが見えてしまうのが変に気になる。超怖い。件のホテルとこのホテルは目と鼻の先である。件の老人がいまにもドアを開けてきそうだ。おっかねえ、と思っていると、今回のライブを主宰してくれた古本屋弐拾dBの藤井君から連絡があり、ホテルまで車で迎えに来てくれることになった。少しお茶して、その後ライブ会場まで送ってくれるという。

向かったのはホテルからほど近いところにある喫茶店・山斗須。いかにも純喫茶然とした良い感じの佇まいで、店には老婆が一人。ちょうど店内にほかのお客はいなかった。窓際の席に座り、メニューをパラパラとめくるものの、いかにもこだわりの珈琲といったラインナップ。八時間ほど抽出したダッチブレンドなどはなんだか凄味さえ感じる。ほかには、これは男の人向け、こっちは女の人向け、みたいなちょっと現在の感じ的にどうなのかというようなメニューもあった。席の近くのガラスケースに燦然と置かれた常連たちのマイカップも妙な迫力。しかし我々の目を惹いたのはオーロラジュースなる、全くもって聞いたことのないメニューだった。長崎など九州の喫茶店でよく目にすることのあるカルコーク(カルピスとコーラのミックス)のようなものだろうか。藤井君が店の老婆に尋ねると、あんこだったか小豆だったかを使ったジュースで、いまはできないとのことだった。全くイメージと違う飲み物だった。

それを聞いてふと、初めて一人暮らしした部屋の鍵を実家に忘れてしまい、青山にある大家さんのマンションにスペアキーを取りに行った日のことを思い出した。全体が大理石みたいな豪勢なつくりの玄関に気後れしながら、みっともないくらいぜいぜい汗だくになって待っていたときに、大家さんが出してくれた謎のあんこだか小豆だかのジュース。あれがオーロラジュースだったのだろうか。とにかく疲弊した身体に和の感じがありがたかったような、喉につっかえて飲みづらかったような、変な記憶だけがある。後にも先にもあのジュースを見かけたことはなかったが、今回がその最後のチャンスだったのだろうか。

結局、二人とも普通のアイスコーヒーをちゅうちゅうと啜り、ライブ会場へと向かった。

 

品品喫茶譚第29回「尾道 山斗須~ふたたびのそごう 前篇」

半年ぶりに訪れた尾道はすっかり夏。

今年の一月に一週間ほど滞在したこの街にはもはや来るというよりも帰ってきたという言い方のほうがしっくりくる。しかし、しっくりきているのは自分だけかもしれない。風は強く、荷物は重い。海沿いのベンチで少し水分補給をし、よく歩いたことのある商店街とは反対、一月の滞在中もほぼほぼ足を運ぶことのなかったほうへと進む。

今回の宿は海に面したホテルである。位置でいえば有吉弘行尾道で結婚式を挙げた際にInstagramにあげたるところの遊歩道の辺り。ちなみに私は中学生の頃、有吉が好きだった。猿岩石日記は有吉の日記のほうだけを何度も読み返した。非凡だと思った。しかし周りはバナナマンとか、U-turnとかボキャブラ天国とかだった。もちろん私もそれらが好きだったけれど、とりわけ猿岩石は一等好きだった。つまりユーラシア大陸横断ヒッチハイクの熱に浮かされていた。ミーハーだった。歌手としての猿岩石もだいぶあとのほうまで追っかけていた。白い雲のように。ツキ。コンビニ。その三つの楽曲のさらに三つ先くらいの楽曲までは買っていた。アルバムはなぜかいまも部屋に置いてある。猿岩石のことはいまはちょっと恥ずかしい。とはいえ、有吉はすごい。だからやっぱりちゃんと売れたじゃん、あの頃、私の周りにいた人々に言ってやりたい。と、そんなことを考えながら歩いたわけではなかったけれども、駅から歩くこと数分ののち、ホテルに着いた。ロビーは狭くて暗くて少し怖かった。

 

今回の尾道滞在は二日間。一日目はライブで、二日目は別件で宿が用意されていた。旅までの間、一日目の宿を探すのと並行して、大島てるを見ていた。悪趣味ではあるが、旅先でおっかない思いはしたくない。大島てるというのは事故物件の情報を地図上でまとめているサイトである。事故物件には炎のマークがついている。もちろん事故物件である理由はさまざまであるが、大概心理的瑕疵などと簡潔に書かれていることが多い。調べていると、私の宿泊する予定のホテルのすぐ近くにある別のホテルに件の炎マークがついていた。ホテルなどは不特定多数の人間が出入りする以上色々あるだろう。しかし件の炎マークの内容は他のものとはちょっと違った。

 

「近くで飲んで深更に帰ってくると、駐車場に男か女か分からない老人が座っているのが見えた。フロントでカギをもらい部屋に入ると、さっきの老人がベッドの上で正座していた。とはいえ、酔っていたのでそのままベッドで眠ってしまったのだが、朝起きると胸に二本の足の跡がついていた!」(著者 要約)

 

見紛うことなき怪談である。しかし老人がベッドにいたのにどうやって眠ったのだろう。支離滅裂ではあるが、しかし変な凄味もある。一体なんなのだろう。

 

通された部屋は七階だった。このホテルには何のいわくもないはずである。しかし部屋の古さのわりにテレビがでかすぎる。テレビが異様に新しい代わりにエアコンが古すぎて、通風口のふたが異様に錆びている。錆びているということは金属製なんだろうか、普通にプラスチックに見えるのに変だなあ、とか思っていたら色々怖くなってきた。部屋に入るとまっすぐ目の前にベッドが置かれているのも、そこに体を横たえると、どうしても正面にドアが見えてしまうのが変に気になる。超怖い。件のホテルとこのホテルは目と鼻の先である。件の老人がいまにもドアを開けてきそうだ。おっかねえ、と思っていると、今回のライブを主宰してくれた古本屋弐拾dBの藤井君から連絡があり、ホテルまで車で迎えに来てくれることになった。少しお茶して、その後ライブ会場まで送ってくれるという。

向かったのはホテルからほど近いところにある喫茶店・山斗須。いかにも純喫茶然とした良い感じの佇まいで、店には老婆が一人。ちょうど店内にほかのお客はいなかった。窓際の席に座り、メニューをパラパラとめくるものの、いかにもこだわりの珈琲といったラインナップ。八時間ほど抽出したダッチブレンドなどはなんだか凄味さえ感じる。ほかには、これは男の人向け、こっちは女の人向け、みたいなちょっと現在の感じ的にどうなのかというようなメニューもあった。席の近くのガラスケースに燦然と置かれた常連たちのマイカップも妙な迫力。しかし我々の目を惹いたのはオーロラジュースなる、全くもって聞いたことのないメニューだった。長崎など九州の喫茶店でよく目にすることのあるカルコーク(カルピスとコーラのミックス)のようなものだろうか。藤井君が店の老婆に尋ねると、あんこだったか小豆だったかを使ったジュースで、いまはできないとのことだった。全くイメージと違う飲み物だった。

それを聞いてふと、初めて一人暮らしした部屋の鍵を実家に忘れてしまい、青山にある大家さんのマンションにスペアキーを取りに行った日のことを思い出した。全体が大理石みたいな豪勢なつくりの玄関に気後れしながら、みっともないくらいぜいぜい汗だくになって待っていたときに、大家さんが出してくれた謎のあんこだか小豆だかのジュース。あれがオーロラジュースだったのだろうか。とにかく疲弊した身体に和の感じがありがたかったような、喉につっかえて飲みづらかったような、変な記憶だけがある。後にも先にもあのジュースを見かけたことはなかったが、今回がその最後のチャンスだったのだろうか。

結局、二人とも普通のアイスコーヒーをちゅうちゅうと啜り、ライブ会場へと向かった。

後半へ続く。

品品喫茶譚 第28回『西院 ブルーマウンテン』

百万遍のカフェコレクションでバジリコスパゲティを食し、古書善行堂によると、私は勢いよく坂を自転車で下っていった。

 

西院に着いたのは夕刻、十六時。夜に知人のライブを観に行くまでの間、喫茶店に入ったり、場合によっては何処か近くの飲み屋で一杯ひっかけてみようかな、そう思った。

私にとって西院の街とは今夜も訪れる予定のライブハウスと駅の間の道に大体集約されていた。今日はそのことがとてももったいないことのように思われたのだ。

うきうきとした足取りで駅を出、かつて京都に越してきたばかりの頃、西院フェスというイベントに出演した際に演奏した鉄板焼き屋を見に行き、そこがもはや違う店になっていたことを確認、折鶴会館や餃子の王将、午後十四時で閉まる古めかしい喫茶店などを横目に歩いたまでは良かったが、当初の予定では黄昏時の一、二時間を、本を読みアイスコーヒーをちゅうちゅう啜ることで過ごそうと思っていた喫茶店が休みであったことを皮切りに、ただ目的もなく西院をひたすら徘徊する者と成り果ててしまった。

飲み屋は大体十七時から、喫茶店は見つからない。まさに黄昏のエアポケット。それならばコンビニで何か購って、公園で飲むのもいいかもしれない。にしても公園の位置が分からない。分からないなら徘徊する者らしくとにかく徘徊していれば、そんなに労することなく公園を見つけることはできるはずだ。しかしまだまだ残暑が厳しい。これは昨日の話です。私はすぐに心が折れた。そして数ある選択肢のうちの一番の悪手。全く何も購わず、何処にも寄らず、これぞ徘徊、ただやみくもに歩くうち、自然と足は嵐電の線路の方へと向っていった。

 

しかし結果的にはこれが正解だったのである。嵐電「西院(さい)」駅。その程近くにブルーマウンテンという喫茶店を発見したのだ。時刻は十六時半。店に入るとママが「十七時半までですけどいいですかあ」と言った。良いに決まっている。アイスコーヒーを注文する。これは京都に限ったことではないけれど、最初に加糖にするか、無糖にするかを聞かれる。いつもなら無糖にすることが多いのだが、今日はなんだか徘徊疲れ(と言っても僅か三十分程度であるが)もあって、「加糖で」と即答。グイっと一口飲むと、喉を液体が通っていく感覚が如実にある。脱水症状寸前だったということもないが、とにかく爽快感に溢れ、復活できた。

店内を眺める余裕も出てくると、カウンターから一人の老人が席を立った。どう見ても井伏鱒二と同じ顔をしている。といっても実際の井伏を見たことはないから、なんか本で見たことのある井伏鱒二にめっちゃ似ている老人がいると思った、ということになる。とにかく老人は井伏鱒二に似ていた。

「ママ、コーヒー美味しかったよ」井伏が言う。

「ん、ありがとうございます!」ママは少し耳が遠いようだった。

「ここの珈琲はUCCかい?」と井伏。

「そうそう。UCCですよ」とママ。

そんなやり取りを聞きながら、アイスコーヒーを啜っていると、続々とお客さんが入ってくる。私が入店したときには井伏しかいなかった店内がにわかに活気づいてきた。

引き寄せてしまった、と思った。喫茶店好きな自分が醸し出す極上の「喫茶店って最高だよねえ」のオーラが、人を引き寄せてしまったのである。もうすぐ閉店時間なのに、ママに忙しい思いをさせてしまって申し訳ないなあと私はしかしほくそ笑んだ。が、恐らくはこういうことだった。この喫茶店嵐電西院駅線路沿いにある、つまり電車が駅に到着したのであろう。降りたお客さんが、この店を見て「少し冷コーでもしばいていこうよ」となるのは当然のことのように思われた。

 

このとき私は彼らとは反対に嵐電に乗ってみようと思った。嵐電に最後に乗ったのはもう七、八年前のことになる。京都に越してきて二年目、数人の知り合いと太秦映画村に行ったのである。思えば楽しい日だった。手裏剣を投げ、ものすごい角度の橋を何度か渡り、劇場で忍者の寸劇みたいなものに大笑いした。雨が結構降っていたけれど本当に楽しかった。

まだ東京に住んでいた頃、一度だけ西院フェスを観に来て、嵐電でのライブを観たこともあった。演奏していたのは、吉田省念と三日月スープ奇妙礼太郎さんだった。どういうシステムだったのかは分からないけれど、途中の駅で坊さんが乗ってきて、観客の誰かが「ぼんさんが乗ってきた!」と爆笑し、それが車内に瞬く間に拡がったのを覚えている。さぞ坊さんは肩身が狭かっただろうと思う。そのとき、坊さんがどこで降り、爆笑の中でどんな顔をしていたのか、全く思い出すことができない。

 

わずか片道二十分ほどの旅だったが、嵐電は私の追憶でいっぱいになった。降りた先の古本屋で二冊古本を購って、西院駅に戻ると、開演にちょうどいい時間となっていた。目当てに観に行ったお二人の演奏は素晴らしかった。夜更けに店を出、終バスに飛び乗ると、私はふらふらと家路についた。

 

 

品品喫茶譚 第27回『今出川 キャンパス』

その喫茶店はいつも通る道の近くにあったにも関わらず、ずっとスルーしていた。というか存在自体が目に入っていなかった。一緒に行った彼女に聞くと、一時期閉店していたこともあるらしく、なるほどそれでは気づかなくてもおかしくはなかった。しかし、私のそのときの感覚からすると、そもそもそこに喫茶店があったという認識すらなく、もっと大げさに言えば、いきなりそこに喫茶店が現れた、と言っても過言ではなかった。過言ではなかったので、私は「こんなところに喫茶店あったんだあ」などと間抜けな声を出し、彼女から呆れられるということになった。

 

石川啄木の小説読んだんだけどさー、無茶苦茶独りよがりですごかった。あんなのだれも読まねえよ」

店には先客がいたが、彼らはどうやらその話す内容からして、近くの大学の文学部に通う文学青年たちのようだった。

保坂和志が、千葉雅也が、知らない外国人作家の名前が、と文学談義に花を咲かせつつ、何の用事なのかは分からないが、夜からは彼らにとってちょっとうきうきしつつも、緊張を伴うような行事があるようで、いまはその時間までのリラックスタイム、というか作戦タイムみたいな時間らしかった。

「スケキヨってまだ生きているらしいよ!」

私は彼らが急にスケキヨの話をし出したので、思わず耳をそばだてた。スケキヨといえば、金田一耕助犬神家の一族である。確かにあの映画(石坂浩二金田一のやつ)はなんとなく夏に観たくなる。ああ、こういう少し頭でっかちそうな、それでいてサブカル気質を持った友達が私も大学時代に欲しかったなあ、と思いながら、彼女はまるで新宿ピースで出てくるようなエビピラフを、私は想像に反してしっかりと手作りでもって用意されたカレーライスをもしゃついていると、どうもそれは角川映画の話ではないようだった。

スケキヨではなくシゲキヨ。つまり彼らは重松清をシゲキヨと言っていたのだった。それはいままで深く考えたこともない意外な呼び名だった。コペルニクス的転回だった。思わず私は犬神家と言えばの、あの湖上から突き出した二本の真っ白い足のように心の中で後ろに盛大にぶっ倒れたが、そもそも勝手にこちらが間違い、勝手に転がり回っている様ではしょうがない。彼らは私たちよりずいぶん先に店を出たけれども、私の心に沢山の何かを残していった(後日、私は石川啄木の『雲は天才である』という小説を図書館で見つけてかりた)

 

店は入って左側の壁一面が鏡になっており、その下に古めかしい長ソファで四、五席、もう片方の壁際に二席か三席あり、そのうち、右奥の一席は片方の椅子だけ丸椅子だった。統一感という面でいうと、あるようなないような、しかし雰囲気は間違いなく純喫茶のそれであり、結構それはそれで良かった。というか、統一感がありそうでないのも純喫茶の魅力の一つだろう。そういう意味でもキャンパスは良い喫茶店だと思った。

鏡に面した方の左奥の席には男性の写真が置かれていた。当然いまはお客用には使っていないのだろう。写真の前には盆も近いこともあってか、ほおずきがたむけられていた。男性は恐らく店のマスターだったのだろう。もしかするとお店を閉めていた時期とも関係があるのかもしれない。写真の男性はどこか見知ったような、会ったことのあるような不思議な雰囲気を持った、朗らかで優しそうな顔をしていた。店員の女性がお冷に勢いよく水を注いでいく。店を出ると、大文字山の方向に大きな虹がかかっているのが見えた。

品品喫茶譚 第26回『ルノアール高円寺北口駅前店~阿佐ヶ谷ニューシャドー③』

久しぶりの人との長く楽しい夜を経て、次の日の朝はショパンから始まった。ショパンというのは淡路町の喫茶店であり、私の泊まっていたホテルからすぐ近くなのである。前回、次も飲むところから始まると思わせぶりに、というか、オチをつけるために無理矢理に書いたところ申し訳ないが(誰に申し訳ないのか、わからないが)珈琲をちゃんと朝から飲み、この『品品喫茶譚』面目躍如なのである。が、時間は一気に夜に飛ぶ。なぜならばこの日の昼の記憶がなぜか急に唐突にぽんぽんすぽぽんと抜けてしまったからである。

とにかくこの日から、私は阿佐ヶ谷のほうに宿を移した。

夜は高円寺でやはり人と会った。四人お会いしたうちのお二人はもう十年以上も私のことを気にかけて下さっている恩人である。この日はその方たちの同期のお二人も紹介いただいた。私は嬉しいのと恥ずかしいのと、訪うた店の多国籍感、ホームパーティー感、なぜか急に始まった踊りのために、すっかり舞い上がってしまったため、ほぼほぼ自分から喋らない、そして初対面の方に気を遣ってもらう、という、私がよく陥るやつになってしまったが、皆さん優しくて、楽しくて、本当にいい夜になった。嬉しくてしょうがなかった。いま思い出しても嬉しい。

高架下を高円寺から阿佐ヶ谷まで喋りながらふらふら連れ立って帰った。雨が降ってきて、宿に着くころには止んだ。いや最初から降ってなかったのか。降っていたのか。猫が一匹、居酒屋の閉まったあとに座っていて、こちらを見て「にゃあ」という顔をした。おやすみという顔をして、宿に戻った。


朝、昨晩たしかにどこかのタイミングで教えてもらったニューシャドーという阿佐ヶ谷の喫茶店に行った。店には私とおじいさんしか客がおらず、店のおばさんが厨房の方と喋っている話に、ボソボソとじいさんが口を挟んだところ、声が小さすぎて、おばさんに聞き返されていて、なんというか朝のやりとりっぽかった。店を出ると眩しい眩しい東京の朝だった。ずっとずっと眩しい東京の朝だった。



品品喫茶譚 第25回『ルノアール高円寺北口駅前店~阿佐ヶ谷ニューシャドー②』

文学フリマ東京の会場である東京流通センターに向かうため東京モノレールに乗る。すでに周りにはトランクを下げ、着物などを着た文学ものたちで溢れている。車窓からは港に面し林立したタワマンが見える。会場の最寄り駅に近づくにつれ、工場や物流倉庫などが増えてくる。昔、日雇い仕事で早朝に港湾地域に向かった記憶が蘇ってくる。懐かしい、というよりは苦しい記憶である。


会場に着くと、もう沢山のサークルが到着しており、着々と自分たちのブースを設置していた。私たちのブースは会場の右奥だった。長机を共有する隣の方に挨拶し、私の新しいエッセイ集二冊と、一緒に出展するwacaさんの画集、急遽作った文士風はんこくじを並べる。他のサークルのブースのようにきちんとしたポップやスタンドなどがあれば良かったのだが、そういったものを全く用意しておらなかったために、白い紙にマジックを用いて、下手くそな字を書き殴っていく。無骨なヴィレッジヴァンガード、もしくは、長机の耳なし芳一みたいなブースができあがった。

イベントが始まるとすぐに、この日限定のエッセイ集二冊同時購入特別特典であるところの「十四歳暗黒詩集」(私が十四歳の時にものした詩をまとめたもの)をもとめて人が殺到するかと身構えていたが、そうはならなかった。

しかしイベント中、沢山の方がブースを訪れ、早々にwacaさんの画集は完売、私のエッセイ集もかなりの数が旅立っていった。私の描いた文士風絵のはんこくじはその情報量の多さがネックになったのか、それがなんなのかよく分からない人が多かったようだ。机の上に無料で押せるはんこが数種あったのも混乱を助長した要因だったかもしれないが、こちらのはんこはよくみんな押していった。異様にはんこを押すのがうまい人が数人いた。

マスクをしていることもあって、ちょっとした知り合いみたいな人でさえ、私が座っていることに気づかなかったり、手に取った人がのちに「著者ですか」みたいなことを確認してきたりしたので、お経のように張り巡らされた張り紙の一つに「ここにいるのはピンポン本人です」と書くなどした。

全くもってスマートではなかった。

夕刻、無事イベントは終了した。コロナ禍前を含めても歴代二位の人入りだったというから、驚いた。この文章を書いているいまよりも当時はやや感染状況もマシだったはずなので、そういうこともありえたのだろう。

 

夜はゴールデン街にあるバーに向かったが、あいにく目当ての店は休みだった。近くの神社でまあまあの規模の祭りが催されていて、長引く疫病にしびれを切らした、というか、開き直っているのか、たががはずれたような騒ぎ方や振る舞いをしている者が多く、結構怖かった。

 

宿に戻り、久しぶりにとある方に連絡すると、ちょうど仕事が終わって知り合いのバーで飲んでいるとのことだった。

急遽、タクシーでその街へと向かう。タクシーの車窓から見る東京は特に自分と関わりのないような場所であってもなんとなく心が動いてしまう。夜景が、人が、流れていく。私はどきどきしながらそれを眺めていた。


階段を上ると、その人がラーメンを食っていた。シックなバーとラーメンのギャップがなんだか良かった。その人とその人の友達と私で深更まで、ゆっくり話した。レコードを沢山聴いた。その人に会うと、私は腹に改めて力が入るというか、気合いを入れ直そうと思うのである。頑張ろうと思うのである。久しぶりにお会いできて、本当にうれしかった。


少し飲み過ぎてしまって、帰りのタクシーではドライバーさんにことわって座席に仰向けで眠らせてもらった。街のあかりがタクシーの天井に跳ね返ってちらちら光っている。まどろんでいるうちにあっという間に宿に着いた。夜が白々と明け始めていた。


酒を飲み過ぎたにも関わらず、珈琲の一杯も飲まないまま、話が終わってしまった。

次回も飲む話から始まる予定になっている。