品品喫茶譚

暇さえあれば喫茶店に行く。テーブルの上に古本屋で買った本を広げて、珈琲を飲む。ぼーっと窓の外の風景を眺める。 初めて訪れた街では喫茶店を探し、住み慣れた街に新しい喫茶店を見つけては歓喜する。 喫茶店を中心とした日々の生活記録。

品品喫茶譚第29回「尾道 山斗須~ふたたびのそごう 前篇」

半年ぶりに訪れた尾道はすっかり夏。

今年の一月に一週間ほど滞在したこの街にはもはや来るというよりも帰ってきたという言い方のほうがしっくりくる。しかし、しっくりきているのは自分だけかもしれない。風は強く、荷物は重い。海沿いのベンチで少し水分補給をし、よく歩いたことのある商店街とは反対、一月の滞在中もほぼほぼ足を運ぶことのなかったほうへと進む。

今回の宿は海に面したホテルである。位置でいえば有吉弘行尾道で結婚式を挙げた際にInstagramにあげたるところの遊歩道の辺り。ちなみに私は中学生の頃、有吉が好きだった。猿岩石日記は有吉の日記のほうだけを何度も読み返した。非凡だと思った。しかし周りはバナナマンとか、U-turnとかボキャブラ天国とかだった。もちろん私もそれらが好きだったけれど、とりわけ猿岩石は一等好きだった。つまりユーラシア大陸横断ヒッチハイクの熱に浮かされていた。ミーハーだった。歌手としての猿岩石もだいぶあとのほうまで追っかけていた。白い雲のように。ツキ。コンビニ。その三つの楽曲のさらに三つ先くらいの楽曲までは買っていた。アルバムはなぜかいまも部屋に置いてある。猿岩石のことはいまはちょっと恥ずかしい。とはいえ、有吉はすごい。だからやっぱりちゃんと売れたじゃん、あの頃、私の周りにいた人々に言ってやりたい。と、そんなことを考えながら歩いたわけではなかったけれども、駅から歩くこと数分ののち、ホテルに着いた。ロビーは狭くて暗くて少し怖かった。

 

今回の尾道滞在は二日間。一日目はライブで、二日目は別件で宿が用意されていた。旅までの間、一日目の宿を探すのと並行して、大島てるを見ていた。悪趣味ではあるが、旅先でおっかない思いはしたくない。大島てるというのは事故物件の情報を地図上でまとめているサイトである。事故物件には炎のマークがついている。もちろん事故物件である理由はさまざまであるが、大概心理的瑕疵などと簡潔に書かれていることが多い。調べていると、私の宿泊する予定のホテルのすぐ近くにある別のホテルに件の炎マークがついていた。ホテルなどは不特定多数の人間が出入りする以上色々あるだろう。しかし件の炎マークの内容は他のものとはちょっと違った。

 

「近くで飲んで深更に帰ってくると、駐車場に男か女か分からない老人が座っているのが見えた。フロントでカギをもらい部屋に入ると、さっきの老人がベッドの上で正座していた。とはいえ、酔っていたのでそのままベッドで眠ってしまったのだが、朝起きると胸に二本の足の跡がついていた!」(著者 要約)

 

見紛うことなき怪談である。しかし老人がベッドにいたのにどうやって眠ったのだろう。支離滅裂ではあるが、しかし変な凄味もある。一体なんなのだろう。

 

通された部屋は七階だった。このホテルには何のいわくもないはずである。しかし部屋の古さのわりにテレビがでかすぎる。テレビが異様に新しい代わりにエアコンが古すぎて、通風口のふたが異様に錆びている。錆びているということは金属製なんだろうか、普通にプラスチックに見えるのに変だなあ、とか思っていたら色々怖くなってきた。部屋に入るとまっすぐ目の前にベッドが置かれているのも、そこに体を横たえると、どうしても正面にドアが見えてしまうのが変に気になる。超怖い。件のホテルとこのホテルは目と鼻の先である。件の老人がいまにもドアを開けてきそうだ。おっかねえ、と思っていると、今回のライブを主宰してくれた古本屋弐拾dBの藤井君から連絡があり、ホテルまで車で迎えに来てくれることになった。少しお茶して、その後ライブ会場まで送ってくれるという。

向かったのはホテルからほど近いところにある喫茶店・山斗須。いかにも純喫茶然とした良い感じの佇まいで、店には老婆が一人。ちょうど店内にほかのお客はいなかった。窓際の席に座り、メニューをパラパラとめくるものの、いかにもこだわりの珈琲といったラインナップ。八時間ほど抽出したダッチブレンドなどはなんだか凄味さえ感じる。ほかには、これは男の人向け、こっちは女の人向け、みたいなちょっと現在の感じ的にどうなのかというようなメニューもあった。席の近くのガラスケースに燦然と置かれた常連たちのマイカップも妙な迫力。しかし我々の目を惹いたのはオーロラジュースなる、全くもって聞いたことのないメニューだった。長崎など九州の喫茶店でよく目にすることのあるカルコーク(カルピスとコーラのミックス)のようなものだろうか。藤井君が店の老婆に尋ねると、あんこだったか小豆だったかを使ったジュースで、いまはできないとのことだった。全くイメージと違う飲み物だった。

それを聞いてふと、初めて一人暮らしした部屋の鍵を実家に忘れてしまい、青山にある大家さんのマンションにスペアキーを取りに行った日のことを思い出した。全体が大理石みたいな豪勢なつくりの玄関に気後れしながら、みっともないくらいぜいぜい汗だくになって待っていたときに、大家さんが出してくれた謎のあんこだか小豆だかのジュース。あれがオーロラジュースだったのだろうか。とにかく疲弊した身体に和の感じがありがたかったような、喉につっかえて飲みづらかったような、変な記憶だけがある。後にも先にもあのジュースを見かけたことはなかったが、今回がその最後のチャンスだったのだろうか。

結局、二人とも普通のアイスコーヒーをちゅうちゅうと啜り、ライブ会場へと向かった。

後半へ続く。