品品喫茶譚

暇さえあれば喫茶店に行く。テーブルの上に古本屋で買った本を広げて、珈琲を飲む。ぼーっと窓の外の風景を眺める。 初めて訪れた街では喫茶店を探し、住み慣れた街に新しい喫茶店を見つけては歓喜する。 喫茶店を中心とした日々の生活記録。

品品喫茶譚第30回「尾道 山斗須~ふたたびのそごう 後篇」

尾道パブルイスでのライブでは藤井君をはじめ彼の妹のむつこさんや色々な方々が手伝って下さり、気持ちよく歌うことができた。疫病が蔓延する前、私はこんな感じで色々な街に歌いに行き、その街の人に助けてもらい、良くしてもらいながら活動してきたのだったと改めて思い出す。いかにいつも独りで立っているような顔をしてローンウルフ(この言い方は西村賢太に影響されている!)を気取ったところで、いつもその街に私を呼んでくれる人あっての自分の活動である。本当にありがたい夜だった。

 

次の日は夕刻まで街を歩いた。行く先は決めていた。半年前の尾道滞在の際に教えてもらった「そごう」という喫茶店を再訪するつもりだった。所謂、観光地然としての尾道のアーケードとは真逆の、その街に暮らす人々の生活圏(スーパーとかワークマンがある道路沿い)といった地域に店はある。前回訪れたときのことは拙著『品品喫茶譚』「尾道そごう」を参照されたし。今回は他にお客もなく、全くの貸切、一番奥の席に座って、前回とは違うカレーを注文した。相変わらず緑色のソファが私好みであり、また他に誰もいないこと、角っこの席のビタハマり感など相まって、しばらくここで作業をさせてもらうことにした。いつも携帯しているのはポメラである。これにちまちま文章を打ち込んでは消しを繰り返していく。いま少し長い文章を書いているのである。歯を食いしばり、かと思えば頬を著しく弛緩させニマニマとし、周りに誰もいないのを良いことに作業に没頭していく。

「もう閉店の時間なんです。すいません」店の方が申し訳なさそうに声をかける。

時計を見れば十五時。今日は十六時に人と合流する予定なのだった。

 

遠くの方からアーケードを歩いてくる荻原魚雷さんの姿が目に入った。丸めがねにいつもの生成のシャツ、いつもの坊ちゃん刈り。シャツは何枚持っているのだろう、生地の厚みが変わるにしても、一年中同じような服を着ているからすぐ分かる。まだ数十メートルは先にいる魚雷さんに思わず会釈し、駆け寄った。

もうすぐホテルのチェックインの時刻になる。ついさっきまでひとりで歩き回っていた尾道の街をいまは魚雷さんと歩いていることがなんだか不思議だった。魚雷さんは声が小さいので、何度も聞き返す。反対に自分の声は大きくなる。魚雷さんに会うとすぐに嬉しくなってそうなる。

とりあえず夜の座談会まで、その座談会の相手でもある藤井君の店・古本屋弐拾dBに、魚雷さんと雑誌「些末事研究」の主催・福田さん(今回の座談会の主催者)を案内することになった。

「この路地の先にポエムっていう喫茶店がありまして。あっ、そこはキツネ雨という雰囲気のある喫茶店です。この間はそこの古道具屋は開いていたんですけど、、」

「ふうん。へー」二人はなぜか私の前を歩いていく。

「あ、そこの路地曲がります」

少し行き過ぎた二人が戻ってきて立ち止まる。目の前に弐拾dBの年季の入った建物が見える。しかし魚雷さんはその路地の手前のビルのドアを開けようとする。

「今日お休みかもしれない。空いてないよ」

「魚雷さん、あっちです」

 

弐拾dBでしばし買い物をしたものの、まだ店の閉店に合わせて設定した集合時間までは大分と間があったので、藤井君と一旦別れ、海沿いにあるバーのような店に入る。これから藤井君が予約してくれた飲み屋で飲むことになるが、とりあえずビールで乾杯する。奥に座った魚雷さんの斜め上くらいの壁に誰かのサインが直に書かれている。サインの横には小さいポラロイド写真が貼られていて、それを見る限り、私にはそこに映っているのがブルースブラザーズに見えた。嬉しそうに話すお二人の話に相槌を打ちつつ、それにしても尾道にブルースブラザーズが来たのだろうか、ということがとにかく気になって仕方がない。どうしてもお二人の話をうわの空で聞いてしまう。ポラをちらちら見ているうちに、そこに写る人物たちの輪郭が段々はっきりしてきた。ヒントはサインの下に書かれた威勢のいい英語だと思った。ウォンビーロング。グラサン。二人組。 ウォンビーロング。バブルガムブラザーズ! 分かった途端に判読できなかったはずのサインも、ブラザートム、ブラザーコンだと読めるから不思議だ。まあそれは厳密には読めたのではなく、分かったというだけのことではある。そうなってくると、「won't be long」と魚雷さんのコントラストが面白すぎる。くいっとビールを飲んでニヤニヤ笑う魚雷さんとサインの写真を一枚撮らせてもらった。

そうこうしているうちに「won't be long(もうすぐだ)」との言葉通り、あっという間に待ち合わせの時間になった。待ち合わせ場所はかつて私と藤井君が初めて出会った日のライブの打ち上げで行った居酒屋だった。そのときはちょうど数十年ぶりのカープ優勝が決まった夜で、店全体がはっちゃけまくっていて、とにかくすごかった。関係ない私までなんだかその空気に飲まれ、喜んだりしたものだった。

通された席は端っこの隅っこだった。別にちびちび、という訳でもないが、四人寄り集まってほそぼそと瓶ビールを注ぎ合い、尾道っぽいおつまみとかを食べながら、あとで何を話したのか全く覚えていないような話をした。しかし私がトイレに立って戻ると、彼らがいない。急いで店を出ると、騒がしくなってきたので河岸を変えるとのこと。ちゃんと私の荷物は外に運んでくれているのに、本人のことは待たないのか。

コンビニで缶ビールやおつまみなんかを購って、港に突き出した堤防の突端へと歩を進める。車座になって腰を下ろすと、生ぬるい風に対岸の向島のあかりがきれいだった。もはや結構酔っていて、ここでも何を話したのかは覚えていない。途中、藤井と魚雷さんが何やら話のキャッチボールをしている後ろの海を青い発光体がひとつスイスイ進んでいくのが見えた。酔っているからそうなのか、そもそもそうなのか、おそらくどっちでもあるところの悪癖が出て、何やら話が途切れたところを見計らったのか、少しだけ腰を折ってしまったのかは忘れたけれども、私は藤井に海に青く光る発光体だよ、と言った。藤井もひとしく酔っているようだったけれど「ああ、ホタルイカですよ」と自分でも薄々気づいていたことを改めて言ってくれた。ありがとう。

暗い海にチロチロと怠惰な放物線を描いて光が舞っていく。それを緩慢な波が瞬く間にさらっていく。ポンポン船はもう終わり、近くのベンチで語らっていたカップルもいなくなっていた。ビールやチューハイのロング缶片手にやっぱり何を話したのか覚えていない。私もずいぶん話をしたような気がするけれど、堤防に着いたとき、福田さんから、全然喋っていないけれど、どうですか? と聞かれ、また自分がよく分からなくなった。

それでもこの日の夜は良い夜だった。

 宿は魚雷さんと福田さんと同室だった。余ったお菓子なんかを軽くつまみながら、和室で過ごす時間は楽しかったが、トイレに立って戻ってくると、お二人はすでに布団に入っていた。なぜいつも私がトイレに立ったときに事を動かすのだろうか。

眠っているのか、いないのか、妙なまどろみの時間が過ぎていく。誰かがトイレに立ったような気がしたが、部屋は静まり返っている。ふと足に白い誰かの足が触れた気がした。私は三人川の字の一番左端の布団で寝ている。私の足は部屋の一番角にあって、そこには着物掛けが一個置いてあるだけである。この白い足は夜更けも夜更け、こんな深更に、部屋の角に立って何をしているのだろう。恐らく二人のどちらかには違いないけれども、その行動に理屈が合わず、ちょっと怖かった。

「この階には私たちしかいないみたいねぇ」

「そうだなあ。それにしてもニンニクを食べると息が臭くなるねえ」

朝六時、隣室のそんなよくわからない内容の話声で目を覚ます。外は土砂降り。アーケードの上に大粒の雨が跳ねて、いつのまにかやんだ。